酒害体験談

飲酒から禁酒そして断酒へ

発表者 H・S
所属 世田谷断酒会

 初段のお免状を頂き有難うございました。私は昔から仲間との飲酒は先頭に立つタイプではなく、 後について飲み歩く方でした。毎日何かと理由を付けて飲み歩いていましたが、結婚を機に外で飲む 回数が減りました。そして長男・長女も生まれ家での飲酒に変わっていきました。
保育園の迎えと夕食の仕度は共稼ぎで妻より就労時間が一時間以上早く終る私の役割です。その頃か ら今でいう作りながら酒を飲むキッチンドリンカーになっていきます。当然ながら食事も酒を飲みな がらで食事が終っても酒だけは続きます。そんな生活を三十年近くやってきましたが、定年を二年過 ぎた頃から酒量が増し、昼からが朝からになり夜中のラッパ飲みの連続飲酒に変わっていきました。
元来小心者ですから所謂酒乱ではなかったと思います。大人しい優等生的飲み方でした。妻から飲 み過ぎとか、もう止めたらの小言で、自室での隠れ酒、焼酎一・八リットルパック飲みの毎日で、無 くなればディスカウント店に電話して運ばせ焼酎パックをベッドの下に隠し置きました。そのうち一 日一本が空になるようになりますが、そんな飲み方が続くはずもなく二年前の五月ついにダウン。六 十キロしかない体重が三十九キロに落ちて自力で立てません。妻と長男に車に乗せられ東京医療セン ターに入院、死の一歩手前でよほど酷かったのでしょう体形や色がまるでミイラの様だったと聞いて います。そのため四ヶ月の入院、それでも体重は十キロしか増えませんでした。食事量も多くなった 現在も五十キロのままです。
退院間近に先生から「あなたはもっと元気になりたいですか」の問にハイと答えますと「もうこれ 以上内科では治りません。専門病院を紹介しますので行ってみますか」と言われました。私は元の体 になって又美味しい楽しい酒が飲める様になるならば喜んでとばかりに転院、その先が井の頭病院ア ルコール病棟でした。そこで初めてアルコール依存症と診断されました。しかも精神科です。思いも よらぬことで腹を立て自分は絶対そんな病気ではないと認めませんでしたが、治療プログラムを学ん でいくうちに原因はやはりアルコールであることが少し理解し始めますが、病気なのに完治しないと の教えには納得がいきませんでした。それから一ヶ月程した頃に患者の一人が外出し酒を飲んで帰り 、ガッチャン部屋に入れられました。もう少しで退院というその人は私に「自分では治ったと思った 」と言いました。後で分かることですがプログラム通り断酒会、AA等自助会回りや院内学習等の毎 日でした。そんな時、新たな患者で三回目の入院という人が入ってきました。その人は言いました、 今度は大丈夫と思った「三年も止めていたから」、それが一度飲んだら一週間で連続飲酒になったと のことでした。アーこれが完治しない病気ということなのかと学びました。
三ヶ月の間に外泊が治療の一つにあり何度も帰る人が居るのには、私は不安で帰れません、何と小 心者か。強制ですのでやっと退院二週間前に泊りに帰りました。そして一週間前の三鷹断酒会参加の 場で退院後は世田谷断酒会に入会すると公言、次の日病院から会長さん宅に電話をしましたが、今月 の会は終わったので十二月に会いましょうと、場所と日程表を郵送して頂きました。当日を待って会 場に行きますと皆さん優しく迎えてくれまして、その時が会員一日目となり初段の現在に至ります。 何とか自分は病気だと認めても、断酒会やミーティング等自分と同じ苦しみを持つ自助会では言えて も人前ではなかなか言えずに曖昧な言葉で逃げていました。そんな時にある会長さんの「もっと自分 をさらけ出しなさい」の一言でした。依存症ということを腹に落として握って離さず、これからも一 日断酒で頑張ります。