酒害体験談

「もっと早く、気づいていたら」

発表者 G・M
所属 世田谷断酒会

 十月の本部例で五段のお免状を頂きありがとうございました。五段の節目ということで初めて檀上に 立たせて頂きました。
 私が異常なお酒の飲み方を始めたのは、気楽な学生生活から一変して、会社に就職してからのことで す。それはアルバイトとは違い、この会社に勤めたんだ、今までの様に半端なことはできないという責 任感と、何か自分は会社に束縛された感じがして、もうこれで自分は今までのように好きなことができ ないというやるせなさと、これでもう自分の人生が終わったかの様な感じがし、会社から帰ると家でお 酒を飲んで気を紛らわしていました。
 酒乱と言えば、当時私には一学年下のよく家に泊まりに来ていた彼女がいました。彼女は母とも仲が 良く、私が酒に酔いつぶれていると母と彼女の二人で買い物に出掛けたりしていました。彼女はまだ学 生でしたので友達との遊びや飲み会に行ったりしていたのを、酒に酔った私はひがみから「遊びに行く な」と言って口喧嘩から始まり、彼女の髪の毛を掴み引っ張り回したり、時には手を上げて痣ができて いたこともしばしばでした。ついに彼女が家を出て行く時、私は泥酔状態だったので追いかけて謝るこ ともできませんでした。その時から私は女性には絶対手を上げないと心に誓いました。
 会社は通関貿易関係の仕事でとても忙しく、朝八時に出社し夜は時には十時、十一時まで残業をして いました。さすがに夜八時頃になると上司が夜食のかわりにお金を出してくれて、近くのスーパーでビ ールとつまみを買い飲みながら仕事をしていました。仕事を終えると毎晩会社の同僚や先輩、上司と二 軒三軒と終電が無くなるまで飲みに行き、私はそれでもまだお酒が飲み足らず家に帰っても飲んで寝て いました。当然、次の日の朝もお酒は残り酒臭いまま満員電車に乗り、電車の中では酒臭いのを周りの 人に気付かれない様になるべく息をしないで窒息しそうになりながら会社に行っていました。ブラック アウトはほぼ毎日で、会社の同僚や先輩に「お前、昨日のことを覚えているか」と聞かれて、全く覚え て無かったり、朝起きて髪をかき分けると髪に血が固まって指が通らなかったり、昨日どうやって帰っ て来たのか覚えて無かったり等、しょっちゅうでした。
 そんな中、私は社内結婚し本社勤務から横浜支店に異動になりました。最初の頃は横浜の町を良く知 らなかったせいか、真面目に働き仕事が終わると真っ直ぐに家に帰っていました。仕事で妻の帰りが遅 いと車で本社まで迎えに行くなど良い関係でした。その内、私は段々職場の人とも仲良くなり飲みに誘 われることも多く、横浜の町にも慣れ私は毎晩仕事仲間と関内や野毛、伊勢佐木町等に飲みに行く様に なりました。最後はキャバクラにハマり家に帰らないで会社に泊まることもままありました。会社から 与えられた自分専用の車にはお風呂セットを積んで、仕事の暇な時間を見計らって中華街の銭湯に行っ ていました。そんなこんなで家にも帰らず、妻を顧みることもなくなった状態で離婚に至りました。そ の後、私の酒量は増え、手が震え始め字が書けない状態で会社に行くのもだんだんと気まずくなり、休 むようになって、とうとう会社を辞める羽目になってしまいました。最初は楽しかったお酒が、最後に はつらいお酒に変わってしまいました。その後、私は何度かの入退院を繰り返しました。もっと早くア ルコール依存症という病気を知り、専門病院に入院して治療をしていれば、十二年間勤めていた会社を 辞めずにすんでいたかもしれないし、妻をもっと大切にできたかもしれないと思います。井之頭病院入 院中の同期で同室だった、今は同じ作業所に通う友人と、断酒会の帰りに母と三人でお茶を飲んでいた 時、「こんなにそっくりなお母さんを、もう酒で泣かせるなよ」と言われ、その言葉が心にとても残り 、断酒継続に繋がっています。あの日、断酒会に出席していなかったら、そして友人の言葉が無かった ら、今の私はなかったと思います。これからも断酒継続に頑張りますので、よろしくお願いします。