酒害体験談

『2014年8月新生研修会での体験談』より

発表者 I.T
所属 墨田断酒会


<生い立ち>
 私の父は、戦前から浅草橋に在る袋物問屋に勤めていました。戦争で徴兵され北海道の陸軍駐屯地に終戦までいて、東京に戻りました。会社は無事だったのですが、住んでいたところが焼けていて住む所がなくなり、会社の社長の好意で一家が疎開していた藤沢に下宿させて頂き浅草橋の会社まで社長と通勤していたそうです。 私は男ばかりの三人兄弟で、長男の私だけがそこで生まれ、社長の息子さんと3年間一緒に暮らして、同じ頃、社長一家は浅草橋へ、私の家族が今の墨田区本所に家を買って移り住みました。昭和25年の事です。
 社長の息子は5歳年上の一人っ子で兄弟がいなかったからでしょうか、毎日のように我が家まで自転車に乗って遊びに来ていました。私にとっても頼もしいお兄さん的存在の人で、二十歳になるまでよく有楽町の映画館で洋画のロードショーに連れていってくれ、帰りに有楽町・新橋・銀座で夕飯を御馳走してくれました。  私が二十歳をすぎると酒を飲みに連れて行ってくれるようになりました。彼が亡くなるまで随分と御馳走になりました。
 私が小学校一年生の時に父は独立してハンドバックのメーカー業を始めました。当初はいままで勤めていた会社に品物を納めていたので、私にとっては、仕事のイロハ、酒の飲み方を等を教えてもらった方でしたが、学校を卒業する前に彼の父が亡くなりました。私が父の会社に入ってからは、彼が社長でしたが、よく我が家に来て、酒を飲んでいました。
 初めの頃は、社員も一緒に来て酒を飲んでいましたが、そのうち社員の人を連れては来るのですが、連れてこられた社員人は社長をお願いしますと言って自分は飲まずに帰るようになりました。やがて、家内も社長の飲み方がおかしいと言って、酒は出さずにお茶しかださなくなりました。それで、近くのすし屋や小料理屋で飲むようになったのですが、お店の主人から、「社長と一緒なら出入り禁止」と言い渡されるような飲み方を彼はしていました。あんな酒の飲み方を自分は決してしないと私は思っていたのでしたが・・・。

<結婚>
 そんな生い立ち環境の中で育ちました。大学2年のとき、読売新聞の夕刊1ページ全面に、日曜日の午後、本郷の赤門前の喫茶店で短大・大学・専門学校の学生が集まるサークルがあることを知り、参加するようになりました。そのサークルで家内と知り合いました。二十歳の誕生日に初めて自分のお金で買った酒がサントリーの各便でした。特に不眠症ではなかったのですが、寝酒にキャップ一杯のウイスキーを飲んでいました。それ以来、自分が買う酒は角瓶でした。家内とは4年程付き合って結婚しました。何百回も合っていたのですが、家内の前で酒を飲んだことは数回しかありませんでした。
 結婚後、「酒屋が御用聞きに来てくれるので、お酒は何をたのんでおくの?」と聞かれたときに「ビール1ケースと角瓶を2本頼んでおいて」と私が言うと「そんなに飲むの?」と驚かれました。つき合いで飲むことも多くなり、一年ほど経ったときに飲み過ぎだから、自分でお酒を買ってくださいと家内に言われました。休刊日を週二日とるように言われたり、宴席やおつきあいの旅行会に行くときは「帰ってからいくら飲んでも良いから、旅行では少しだけにして!」とも言われました。

<五十歳を過ぎて>
 五十歳ぐらいまでは、お得意さんや友だちなどとワイワイ言いながら皆で楽しい酒・うまい酒を飲むことが多かったのですが、50歳を過ぎたてからも、声がかかればどこにでも酒を飲みに出かけましたが、酒の量はたいして変わらないのに家で一人で飲むことが多くなり、うまいと思って飲む酒から、酔いを求めて酒を飲むように変わってきたと思います。
 少し余分に酒を飲むと、一日中しゃっくりが止まらなくなりました。それで、息子が強いアルコールコールを長年飲んでいると、慢性アルコール中毒により、しゃっくりがつく旨の病状をネットで調べてきました。家内にウヰスキーからビールに変えるように言われて、ビールを飲むのですが、濃いウイスキーの水割りを飲んでいたので、ビールでは酔うことができません。隠れてウイスキーを飲むようになりましたが、すぐに家内に気づかれて酒を止めるように初めて言われました。
 一か月ほどは、禁酒ができるのですが、飲みたくなると隠れて飲みました。「お酒、飲んだでしょ」と家内にいわれても、「飲んでない」の繰り返しで、家内と家族を巻き込んで飲酒に関しての喧嘩が絶えなくなりました。

<人間ドック>
 10年前に見かねた長女に「おとうさん、一度、人間ドックに入って、全身の検査を受けてくれない?」と言われ、大学病院で検査・診察を受けました。娘は会社を休んで付いてきてくれ、十万円近くい費用を払ってくれました。
 夕方、検査が終わり、その日わかる検査の結果を内科の先生が話してくれました。「特に脳のMRIに以上はありませんが、なぜ、高い料金を出して脳ドックを受診されたのですか?」と聞かれました。
 「じつは、この一年ほど酒を飲んだ飲まないで家内とけんかが絶えなくなり、娘が心配しするので受診しましたが、もし異常がなければ"少しぐらいの酒は飲んでもかまわないと書いておいてください」とその医師に何回も頼んでしまいました。
 娘は私の体や家内とのけんかが絶えないのを心配して、体のどこかが悪ければ酒をやめてくれると思って連れて来てくれたのでしょう。三週間後、全ての検査結果が郵送されてきました。いままでどおりの生活でOKと書かれていましたが、最後に家族が酒を飲むことに反対なら飲まない方が良いでしょうと、注釈がついていました。

<誓約書>
 健康なら酒を飲んでもかまわないと思いつつも、娘の手前、ひと月ほど飲まずにいたのですが。再び、酒を飲んだ時、娘は少し顔を曇らせました。「子の心、親知らず」でした。家内は激怒し、「酒をとるか、私や家族をとるか?」と迫りました。「酒は、やめられないだろうなぁ・・・」と私がつぶやくと、その日のうちに妻は実家のある高知に帰ってしまいました。
 娘二人、息子一人、こどもたちは皆、大学を卒業して社会人でしたが、同居していたので家から通勤していました。私は食事の支度など主婦業もこなして、普通の生活を続けていたのですが、本来の私の仕事で得る収入がどんどん減るのがわかり、三週間ほどして家内にもどるように電話しました。次の日、高知の実家から戻ってきた家内は最初に私に言いました。「私はあなたの酒が原因で二度と実家に戻ることはしませんから、二度と酒を飲まない旨の誓約書をあなたが書いてください」今度、酒を飲んだら私が出ていくことも付け加えて誓約書を書かされました。
 そんな家族を巻き込んだ大騒動も収まりきらない三週間後、また酒を飲んでしまった私は四日間、家をでました。
 家を出て一日目から子供たちから早く家に戻るように携帯電話にメールや留守番電話が入っていました。"お母さんとの約束だから帰らない。"と返信しました。三日めに家内から仕事がたまっているのですぐに帰るよう言われましたので、次の日に帰宅しました。再び、酒を飲まない旨の誓約書を書かされました。その後も三週間から一カ月ぐらいの感覚はあったものの、飲酒は続きました。月に一度や二度、酒を飲んだからってああだこうだ言われることに私は腹を立てていました。

<温泉旅行>
 その年の暮に福島の温泉地に二泊しました。温泉地の周りは雪が三十センチほど積もって寒い旅行でした。一泊目。夕食は会場食で、まわりは日本酒やビールを飲む人が大半でしたが、私は酒を飲まずに済みました。二日目。午前中から近くのテーマパークに遊びに行き、昼食後、早めに宿に戻りました。夕食まで時間があるから温泉に入ってくると私は浴場に向かいました。入浴もそこそこに酒の自動販売機で500mlのスーパードライを急いで飲んで私は部屋に戻りました。
 「顔、赤くない?」と家内に言われましたが、「温泉で温まったからだろう、部屋の中も暑いし・・・。夕飯までにお前も入ってきたら?」と言いつくろいました。家内が部屋をでると私は先ほどの自動販売機でまたビールを買い、急いで飲んで部屋に戻りました。
 30分ほどで家内は部屋に戻ってきましたが、「お酒、飲んだでしょ」と言われました。
 「飲んでないよ」と白を切ったのですが、「私が部屋を出たらすぐにビールを買って、飲んでたじゃない。お風呂に行かず、あなたのやったことをかげでみてたわよ・・・」ここまで言われたら私は黙りこむしかありません。横になってTVを観ていた私の上に家内は馬乗りになり「なんで酒なんか飲むの」6と言いながら私の首を両手で絞めました。楽しい旅行どころではありません。
 あとあと「殺すつもりで首を絞めたんじゃないわよ」と、言われましたが、本当はどうだったんでしょうかね?

<断酒会への入会>
 十年前は、私にとって最悪の年だったと思いました。開けて正月は酒なしで過ごしましたが、断酒会にお世話になる一ヶ月半ほど前、月に一回か二回、仕事を終えてからの隠れ酒で済んでいたのが、朝から無性に飲みたくなり、酒屋の自販機にウイスキーを買いに行き、早朝から飲むことを三週間の間に六七回やりました。
 「私の手には負えない」思った家内は病院に私の検査を予約し、二月の中旬に私は診察を受けました。問診・審査の結果、「入院しても良いし、自助会をまわって酒をやめてる人もいますから、どちらでも!」と医者に言われました。自営業で三カ月も入院したら、お得意さんを皆失くすかもしれないと思い入院せずに断酒会にお世話になる選択をしました。

<例会まわり>
 三月初めに断酒会に入会。例会を回り始めました。
 どなたかが、こうすれば断酒できますと教えてくれるのかと思いましたが、それもなく、酒を飲んでいたことは全て忘れたいのに、断酒の誓いにあるように酒害体験を掘り起こし云々があり・・・。変な会に入っちゃったなぁ・・と、後悔しましたが、例会に出席するのは苦ではありませんでした。
 断酒会に入会してもすぐに酒が止まったわけでもなく、月に一度くらいは酒を飲んでいました。家内が断酒会に入っているのに酒を飲んじゃうの・・と、会の先輩の家族の方に相談すると「クリニックに行って抗酒剤をもらって飲ませないとお酒は、止まらないわよ」と言われ、家内はクリニックに行って抗酒剤をもらいたい旨相談しました。クリニックで本人が来ないと抗酒剤は出せないと言われた家内は私に一緒にクリニック行ってくれるように頼んだのですが、私は断酒会だけで酒をやめるつもりだから行かないと言いました。
 何人かの先輩に酒をやめるのにはどうしたら良いんですか?とお聞きしました。すると例会をまわりなさいと言われるだけで、困りましたが・・・、いま思うと例会に出続けることが正解だったんだなぁと感じています。
 ある時「酒で家族に迷惑をかけたら、それだけでアルコール依存症だよ」と言う話を聴きました。長いあいだ迷惑をかけてきたから私も「アルコール依存症」だと気づかせていただき、酒を飲まない道を選んで今に至っています。酒を飲まない道をきづかせていただいた例会に参加している断酒会の会員・ご家族のおかげだと感謝しています。

<アルコール依存症の平均寿命>
 はじめに話させていただいた、三年間一緒の家ですごした社長は、アルコール依存症の平均寿命とされる五十三歳でこの世を去りました。
 酒に関して、結婚当初からああだこうだと私に酒を飲加減して飲むよう、嫌なことばかり言いづけていいた家内にその時々、うるさいなぁと怒ってばかりいましたが、私の健康を思って言っていてくれたんだと、感謝しなければと、酒が止まった時に思いました。
 思いましたが、いまだに家内・家族に感謝・謝罪ができていないと感じます。心苦しいのですが期を逸した感じです。せめて断酒継続で償えればと思っています。

<三本柱の利用の仕方>
 最後に今回のテーマ【三本柱(通院・抗酒剤・自助グループ)の利用の仕方】についてですが、お話ししたとおり、私はほかの二本の柱(通院と抗酒剤)はいざ知らず断酒会だけで酒をやめさせていただき感謝しています。お話しさせていただいた通り、断酒の仕方などを教えてくれる会ではなく、例会に参加して、自分でいろいろと勉強して、身につけ、酒をやめ続けて行く会ですから例会出席が秘訣かなと感じています。
 先輩に教わった通り、新しく会員になられた人たちに断酒の秘訣は?と聞かれたら【例会に足しげく通うと、そのうちわかりますよ】と私もお話ししたいと思います。